水奈月の独り言

映画についての個人的な見解と、ときどき物語。

短編小説『ろくに生きられない』

「もうダメだ」そう思った。特別派手に転んだわけではないけれど、久しぶりの転倒に動転した。転がるように倒れ、気付けば目の前には地面があった。

「あ、転んだのか」そう実感するまでに間があった。自分の状態を確認する前に自分が今どこにいるのかが気になった。顔をあげてみると、ずっと遠くに光り輝く場所が見えた。それまでの道も所々でキラキラした光が溢れている。

ふと人の気配を感じて視線を動かす。彼だった、と思う。顔が、体の輪郭が、全体にぼんやりしていてハッキリとはわからない。起き上がらせてくれるのだろうか、やや屈んで手を差し伸べている。私がその手を取ろうか迷っていると、彼はまた歩き出した。

いつもそうだ、と後姿を見ながら思った。彼は手を貸そうとしてはくれるけれど、それが下手くそなのだ。「大丈夫?どうしたの?」と言って手を差し出してはくれるけれど、その手に捕まることがどうも出来ないのだ。手に手を重ねればいいだけなのに、どうも上手くいかない。私がいけないのだと思った。私が上手くその手に頼れないから、起き上がれないのだと。しかしどうも違うようだ、と最近になって感じる。彼の起こし方と、私の立ち上がり方が違うのだ。やり方が違うのでは起き上がれるはずもない。どちらも悪くはないのだ。どちらのやり方も間違っているわけではない。ただ、合わないのだ。けれど彼はそれに気付いていない。とにかく手を伸ばし、起こす意思があることを伝えて、どうして転んだのか聞いて、自分のやり方で助けようとする。それが相手にとってどうということは考えないのだ。“そうしている自分”を認識したらそれで彼自身は合格なのだ。結果がついてこないのは、向こうの問題もあるから、自分のせいとは限らない。おそらく、そんな風に思っているのだろう。

一方で私は、転んだことも、起き上がれないことも全てを自分のせいだと考えている。誰かのせいにするよりはマシだとも思っている。だから、自分のせいで起き上がっていきたい。助けてほしいわけでもない。ただ、彼が傍で待っていてくれたら嬉しいと思う。自分で蒔いた種は自分で摘み取るから、それが終わるのをぼんやり待っていてくれたらいい。

 

ところでここにはアスファルトの道が一本、黒い線のように真っ直ぐ通っている。私はその上にうつ伏せになり、腕をついて首を上げて回りを見ている。転んだ拍子に泥まみれになり、地面に打ったあちこちがズキンズキンと、じんじんと痛む。アスファルトの周りには薄いオレンジ色が広がっている。その薄いオレンジ色は、ベルトコンベアのように後ろへ流れていく。

アスファルトが見えないくらい遠くの地平線は、爆発でも起きたように白く輝いていた。眩しくて直視できないほどだ。その光とは別にすぐそこでもキラキラした光が粉雪のように舞っている場所がある。もうすぐ目の前で、今にも手が届きそうだ。薄いオレンジの流れに乗って、少しずつこちらに近づいてくる。私が転んで泥まみれでも、体中が痛くてもお構いなしに近づいてくる。私はそれが、とても不安で恐怖すら感じた。その気持ちに気付いたとき、地平線の爆発したように白い光もこちらに向かってくると直感し、ますます恐怖を感じた。

「こんなに泥まみれになっているのに、地面に打ちつけた箇所も痛むし、あんなに美しく輝く光りの中に、私なんかが入っていけるのだろうか」私はうつ伏せになったまま硬直した。身のすくむような恐怖と焦りが全身を強張らせた。

「もうダメだ、もうイヤだ」思い返せば、もう何度目かの弱音が胸いっぱいに広がって、喉を塞ぐ思いがした。

だが、その光りを避けるわけにはどうもいかなそうだった。全く手がないわけではないのだろうが、避けたら避けたでそちらの方がもっと厄介なことになりそうだった。例えこの不様な格好のままでも入ってしまうほうがいいような気がした。しかし、そう簡単でもないようだ。光りの中に入ったら、光りのエネルギーによって、強制的に起き上がらなくてはならないのだろう。きっと、下から突き上げるようにして体を持ち上げられるのだ。そしてそこには多くの人がいて、人目に晒されるだろう。否が応でも泥を落とし、人に見られても恥ずかしくない程度には身なりを整えなければいけない。そして光りを通り過ぎたあと、エネルギーがなくなればまた、いや、今よりもっと、派手に地面に倒れ込むかもしれない。私が恐怖に感じているのはそのこともわかっているからなのか。

そこで私は、またしても彼の手を思い出した。あの時彼は手を伸ばしてこう言った。「やれるだけやってみればいい」。

―やれるだけ。

やれるだけ、とはどこまでのことだろうか。どこまでやっても“やれた”とは思えない気がする。私は自分で合格点を出すことができないのだ。“やれる”という事は一〇〇%できる状態のことを言うのであって、七〇、八〇%では“やれた”とは言わない、そう思ってしまうのだ。だから苦しいのだ。そして、光りのエネルギーで無理やり起き上げさせられてしまえば楽しめるのだろう。だがしかし、今の私に楽しむ価値はあるのだろうか。楽しんでもいいのだろうか。泥を落とし、服を替え、身なりを整えて、光りの中に入るに相応しいそれ相応には見せることができるだろうが、もう一人の私が言うのだ。

『お前の本当の姿を知っているぞ?本当はここに居るべき人間じゃないことを見抜かれているぞ。』その脅しがとても怖いのだ。

その光りを、諸手を挙げて受け入れられるときはいい。けれど、今のようにアスファルトを目の前にするほど転んでしまった場合、途端に光りそのものが恐怖の対象になってしまう。その光りに見合う人間ではない、私はボロを隠しているだけのクズのような人間だ。あんなに、神々しいほどに、キラキラと輝く光りとはまるで別の正反対の人間なのに。そう思えてしまうのだ。そして苦しくなる一番の原因は、一度転んでしまうと、その光りに見合う人間になるために試行錯誤するが、何をどこまでやってもそういう人にはなれないと決めつけてしまうのだ。どこまでやっても“やれた”と合格させてあげられないのだ。ゴールのないマラソンのように、どこまでも「まだやれるのでは?」「みんなはもっとやっている」とせっつかれてクタクタになってしまう。「これだけやってもダメならもういいよ」と諦めようとすると、今度は『なんだ。がんばるくらいならやめるっていうのか』と聞こえるのだ。やってもやっても合格しないからやりたくないのだ。がんばりたくないわけではない。

いや、そうでもない。がんばることも好きではない。がんばらなくてもいいではないかと思う。「がんばったから」という理由がそもそも得意ではない。いいじゃないか「生きているから」という理由だけでも。生きているだけで充分がんばっているではないか。

と自分の中で二つの声がする。がんばらないといけないと言う私。生きているだけでがんばっていると言う私。どちらも本当の声だが、どちらも嘘くさいとアスファルトに倒れ込む私。ろくに生きることもできないのだ。